辿り着いた「釉裏銀彩」の境地。
銀の輝きを九谷焼にもたらした
人間国宝・中田一於
2025年、中田一於氏は、重要無形文化財「釉下彩(ゆうかさい)」の保持者(人間国宝)に認定されました。そんな釉下彩の技法で生み出される、中田氏の代名詞である作品「釉裏銀彩(ゆうりぎんさい)」を前にした時、誰もがその清楚で高潔な輝きに目を奪われることでしょう。

しかし陶芸の世界において、銀は長らく避けられる素材でした。銀泥であれ銀箔であれ、焼成して磨いても剥き出しのままでは数ヶ月で酸化して、黒ずんでしまう。あるいは釉薬の下で焼成しても剥離が起きやすいのも銀の特徴です。
その制御が難しい銀を主役に据えようなどと考える作家は、中田一於氏以前は、現れなかったのです。

<目次>
・イバラの道こそが「唯一無二」への扉
・地道に、ただひたすらに銀と向き合う
・銀の輝きを守る釉薬が、より美しい表現へと導く
・素材から手を加えて。理想を求めて銀を仕立てる
・手作業で形を切り出す。作品に優美が宿る
・より良く、新しい表現を求めて。道具は試行錯誤
・現状に甘んじない。「釉裏銀彩」の第一人者としての矜持
・生涯、挑み続ける銀への情熱
・陶歴
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イバラの道こそが「唯一無二」への扉
なぜ中田氏は、あえて「銀」という困難な道を選んだのか。その原点は、30代に入った頃に受けた、三代徳田八十吉氏の助言にありました。
「展覧会は他の作品との比較なんだよ。入選したければ、人のやっていない個性的なものを作った方が有利だ」と。
そのころの伝統工芸展において九谷焼の属する色絵は、ほとんどが小紋。小紋じゃないと入選しないと言われた時代だったと中田氏は当時を振り返る。九谷焼の伝統的な小紋に多くの作家がひしめく中、中田氏は三代徳田氏の言葉を胸に、思うのです。
「そういえば銀箔という素材は、誰も使っていないな」と。
若き中田氏は、誰もが避けて通る「銀」に目を向けたのです。それは前代未聞とも言える、果てなき挑戦の始まりでもありました。

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地道に、ただひたすらに銀と向き合う
器に銀箔を貼り、その上から釉薬をかけて焼く。しかし、ただそれだけのことが、銀においては決して簡単にはいきません。
重要になるのは、釉薬をかける前段階。器と銀の間を密着させ、空気を完全に遮断しなければなりません。もし空気が残った状態で焼成すれば、銀の美しさは損なわれ、剥離の原因ともなります。

実際の工程を聞くと、まず器に膠(にかわ:自然由来の接着剤)で銀箔を貼り、十分に乾燥させてから焼成。
「1回の焼成じゃ、全くピタッと収まってない」
と中田氏は言います。焼成すると銀が浮き上がる箇所が無数に出てくる。 浮き上がったところには空気がある。それを一つひとつ針で突き、空気を抜いては膠で抑え、再び窯へ入れる。この工程を、銀が器に密着するまで、三度、四度と繰り返します。

また、熱に弱いはずの銀が変色せず、美しく仕上がるのは、中田氏による極めて繊細な温度管理があってこそ。長年の試行錯誤による、まさに「神技」とも呼ぶべき領域。人間国宝認定の背景には、銀の美しさを守る緻密な温度管理と、見えない空気との地道な戦いがあったことが想像できます。
気が遠くなるような根気を必要とする仕事ですが、
「これが釉裏銀彩、銀箔を扱う上での宿命なんです。避けては通れない仕事」
と中田氏はさらりと語ります。

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銀の輝きを守る釉薬が、より美しい表現へと導く
銀が剥き出しのままでは変色を起こし、その輝きは失われてしまいます。器全体を釉薬(うわぐすり)で覆い、銀を密閉状態に置くことで、初めてその美しさは永遠のものとなります。
ここでも銀箔の特徴に合わせた工程によって焼成温度の違いを経て、何度も焼成を繰り返します。窯の中という目に見えない世界で、銀の形状を保ったまま釉薬を焼き付ける──。それは、膨大な経験の果てに掴み取った至難の技です。

そして、焼成の難しさと並行して中田氏がこだわり抜いたのが、釉薬の「色」でした。
「ブルーの釉薬越しに透けて見える銀がキレイだなぁって。自分でもびっくりしたね」
同じ青でも濃淡を変えて試行錯誤を繰り返し、たどり着いたのが『淡青(たんせい)』。まさに中田氏の代名詞とも言える、気品あふれる色彩です。

さらに、上品な表情をみせる『淡紫(しおん)』や、可憐なピンク色の『淡桜(たんおう)』といった色釉も開発。
現在は透明釉を用いて銀そのものの輝きが楽しめる『白金釉(しろがねゆう)』の作品も手掛け、釉裏銀彩の表現領域は広がっています。

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素材から手を加えて。理想を求めて銀を仕立てる
使用する銀箔にも、中田氏ならではの流儀があります。銀箔は、一辺24cm四方のものを特注し、自ら重ね合わせることで好みの厚さに仕上げているという。
「一般的な銀箔はほとんど使わない。釉薬をかけて焼成すると、薄すぎて消えてなくなっちゃう。ある程度の厚みがないと、焼成時に銀が溶けて消えてしまいます。かといって厚すぎると、今度は発色が濃くなりすぎたり、剥離の原因になったりもする」
その塩梅が難しいからこそ、そこは自らの手で。銀澄(ぎんずみ)という通常の箔の10倍ほどの厚みがあるものを使用し、銀澄を2枚重ねにした箔を作り、1枚と2枚重ねの銀澄で濃淡をつけ、時にはそれよりも薄い「薄澄(うすずみ)」を用いて変化をつけている。理想の輝きを得るために、まずは素材そのものから作り込む。中田氏にとっては、それも「釉裏銀彩」という宿命に向き合うための、ごく当然の準備に過ぎないのでしょう。
当たり前のこととして、ただ淡々とその工程を話してくれました。

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手作業で形を切り出す。作品に優美が宿る
そうして自らの手で仕立てた銀箔から、次はいよいよ模様や形を切り出します。大量に同じ作品を制作する場合、抜き型(パンチ)を使って、銀箔から均一な丸形を切り出す手法もありますが、それは中田氏の本望ではありません。小さな丸いパーツ一つとっても、できる限り手で切り出したものを使いたいと氏は語ります。

「パンチで切り抜いた丸の方が、当然きれいなんですよ。手でどんなに一生懸命切っても、完璧な丸にはならない。けれど、その手仕事ゆえの微かな歪みにこそ、温かみが感じられると思うんです。機械的な正円を並べても、面白くもなんともないですから」
銀箔から形を切り出す作業は手間もかかり、指先への負担も大きく、常に腱鞘炎にも悩まされるそう。それでも中田氏は「手仕事の感覚」を何よりも大切にされています。
実際の作品を見ながら

「ほら、ここの丸い模様が並んでいるの。これは一つずつ、手で切り抜いたやつね」と中田氏。
釉裏銀彩の洗練された輝きと、手仕事によって生み出される柔らかな雰囲気。その二つが融合することで、唯一無二の気品が作品に宿ります。
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より良く、新しい表現を求めて。道具は試行錯誤
作品をよく見ると、花びらや葉には模様が刻まれています。これは「線彫り(せんぼり)」と言われるもの。例えば葉っぱの形に切り出したものを器に貼り付け、線彫りで葉脈のような模様を削り出します。

その削る際に使う道具というのが、なんと歯医者さんが歯を削るときに使う機械なのだそう。
「以前はホームセンターで購入したもので削っていたけど、すぐにモーターが熱くなって持てなくなって。でも歯医者さんのこれだと、熱くならない。それでも、作業していると先端部分は削れて太くなってしまうから、頻繁に交換してます。特に細い線を描くときは、3回使ったら、もう細く削れないから先端は交換。この先端はどこで売ってるかって?これも歯医者さんと同じの(笑)」。
銀箔を切り出したり、削ったり。そのための道具は、これまでもいろいろ試行錯誤。そのため、今でも外出先で面白いな、使えそうだなと思うと足を止めてしまうのだそう。
「常に、頭の片隅に釉裏銀彩の仕事があるから、ホームセンターとかに行くとついつい探してしまう。これを使えば面白いものができそうとか、これで箔を切ったら面白いかなとか。それによって今までにない新しい表現ができたりもする。それが楽しい」

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現状に甘んじない。「釉裏銀彩」の第一人者としての矜持
「いずれにしても、銀箔を使っていろんな表現を試みることは、まだ誰も手を付けていない。だからこそ、何をやってもすべてが新しい仕事になる。それは大きなやりがいがあります」
そう語る中田氏が、三代徳田八十吉氏との忘れられないエピソードを明かしてくれました。それは釉裏銀彩を始めて展覧会での入選も10回を数え、仕事として順調に歩んでいた頃のこと。ある日、中田氏は徳田氏に呼び出されます。

「徳田先生から『今は順調にきているけれど、もし展覧会で他の誰かが釉裏銀彩を手掛け、その作品が高い評価を受けたら、可哀想だけどお前は消えていくぞ』と言われてね。あれには驚きました。けれど、それからはより強く意識するようになりましたね。毎年、釉裏銀彩の仕事の中では自分が一番でありたい、と。先生は、順調な時こそ気の緩みは許されないと、釘を刺してくださったのだと思います」
釉裏銀彩を始めた頃は、直線的なストライプが中心だった銀箔の表現も、年月を重ねるごとにさまざまな紋様が取り入れられ、その構図も複雑となり、見る人を魅了し続けています。

個展や展覧会には、何十年と通い続ける熱心なファンも多いといいます。
「『今回はここが変わったね』と、細かな変化に気づいて声をかけていただけると本当にありがたい」
恩師の助言とファンの期待。その二つを力に変え、中田氏の釉裏銀彩は今もなお、鮮やかに進化し続けています。

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生涯、挑み続ける銀への情熱
釉裏銀彩の紋様は、銀箔を切り貼りして表現するため、絵付けのような細密で入り組んだ描写は極めて困難とされてきました。しかし、中田氏はこう語ります。
「70歳を過ぎた頃に、釉裏銀彩でどこまで細かなことができるか、試してみたくなったんです」
着想の源は、散歩中にふと目に留まった「カラスノエンドウ」でした。細い茎に連なる小さな葉、くるくると巻いたツル、そして実を宿したさや。そのあまりに緻密な造形を、中田氏は銀箔で再現することに挑んだのです。

実際の作品を前にすると、銀に輝くカラスノエンドウの美しさに目を奪われます。と同時に、その作業の緻密さを思うと言葉になりません。葉っぱは1枚1枚、銀箔から手作業で切り出され、ツルやさやも同様です。それら無数のパーツを膠で塗り、ピンセットで一つひとつ、全体のバランスを見極めながら器に置いていく……。気が遠くなるような工程を経て、さらに空気との戦い、緻密な線彫り、釉薬をかけて繊細な温度管理の元、焼成される。どこをとっても“大変だ”。
「挑戦でしたが、自分でもまだこれほど細かな仕事ができるのだと実感できました。これからも思いついたことは、全部やってしまおうって気持ちでいます」
人間国宝という至高の境地に辿り着いてなお、中田氏の意欲は尽きることがありません。これからの作品も楽しみです。
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中田一於
昭和49年
一水会入選 以後連続入選
昭和53年
日本伝統工芸展入選
昭和56年
石川県伝統産業優秀技能奨励賞受賞
昭和62年
伝統九谷焼工芸展受賞
平成2年
日本伝統工芸展文部大臣賞受賞
「釉裏銀彩四方鉢」文化庁買上げ
平成3年
日本伝統工芸展監査委員(以後11回)
平成5年
「釉裏銀彩壺」がワシントン・スミソニアン美術館の永久保存作品に選ばれる
平成9年・13年
伝統九谷焼工芸展大賞受賞、石川県立美術館買上げ
平成14年
石川県指定無形文化財 九谷焼技術保存会会員に認定
日本伝統工芸展特待者出品(以後15回)
平成20年
日本工芸会理事就任
平成22年
日本伝統工芸展日本工芸会保持者賞受賞
(北陸)現代美術展北國文化賞受賞
平成23年
紫綬褒章受賞
石川テレビ賞受賞
平成24年
小松市文化賞受賞
平成27年
伝統文化ポーラ賞優秀賞受賞
平成28年
日本伝統工芸展特待者出品、宮内庁買上げ
平成30年
日本工芸会常任理事就任
石川県陶芸協会会長就任
令和元年
旭日小綬章受賞
令和4年
小松美術作家協会会長就任
令和6年
日本工芸会監事就任
令和7年
重要無形文化財「釉下彩」保持者に認定
現在
重要無形文化財「釉下彩」保持者
石川県美術文化協会理事
石川県指定無形文化財九谷焼保存会会員
小松美術作家協会会長