能美市九谷焼美術館中矢館長に聞く
「九谷焼の歴史と画風」
九谷陶磁器史研究家でもある、能美市九谷焼美術館「五彩館」の中矢館長に、九谷焼の歴史やその時その時の画風についてお話を聞いてきました。
Q.
九谷焼はいつ始まったのですか?
江戸前期の1655年です。
九谷焼の開祖は、加賀大聖寺藩祖前田利治公。前田利家の孫になります。領内の九谷金山で磁器原料の九谷陶石を発見したことがきっかけとなり、色絵磁器生産が始まったのです。
陶石が見つかった九谷村に築かれた窯は50年ほど稼働しました。その頃に作られた九谷焼をのちに古九谷もしくは古九谷焼と呼ぶようになりました。
Q.
古九谷(初期の九谷焼)は、どんな画風だったのですか?
均整のとれた完璧な美とはまた違っていて、古九谷は、とてもダイナミック。そして、魂をゆさぶるような力強さがあります。
様式としては、紺青・赤・紫・緑・黄の5色を使った「五彩手」と緑・黄・紫の3色によって塗り埋める「青手」があります
五彩手は、まるで日本画のように余白を生かして描く様式です。
古九谷 色絵花鳥図鉢
能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵
青手は、まるで油絵のように器全体を絵具で塗り埋める様式です。
古九谷 青手芭蕉図鉢
能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵
どちらも中国明代の五彩や三彩の技法を取り入れてはいますが、古九谷の表現は、中国の模倣はせず、全くのオリジナルであるということが素晴らしい。古九谷が誕生した17世紀において古今東西の美術工芸品を見ても、その独創性は他を凌駕します。古九谷は、クラフトではなく、絵画芸術をも超えた見事なアートなのです。現に、欧米の美術館も古九谷を高く評価し、所蔵していますから。
Q.
色絵磁器である
古九谷が作られた江戸前期。
その頃の日本において、色絵磁器はどういう存在だったのですか?
色絵磁器は日本ではまだまだ希少で中国からの渡来品の色絵磁器は、金に匹敵するほどの価値でした。日本国内において色絵磁器生産は、有田でしか行われておらず、その制作方法も、先進的な技術が必要でした。しかも鎖国下。本場中国の情報も乏しかったはず。そんな中、有田や出島のある九州から遠く離れた加賀の奥山で、見事な色絵磁器=九谷焼が登場したのです。その凄さを例えるなら「ラジオしかない時代に、モノクロテレビさえもすっ飛ばしてカラーテレビを作ってしまった」そのぐらい九谷焼の登場は衝撃的です。
Q.
それほどすごい九谷焼が
なぜ加賀の奥山で誕生することができたのでしょう?
前田家のバックアップがあったからこそですね。当時、徳川家や他大名に対して、その実力を見せつけるため、前田家は「文化で天下を覇せよう」と舵をきっていました。狩野派や琳派などの実力者をヘッドハンティングしていたり、金と匹敵するほどの価値があった渡来品を手に入れていたりと前田家の美術文化に対する審美眼はとても高まっていたはず。そんな中、色絵磁器の原料となる陶石が見つかり、乗り出した色絵磁器生産事業。「前田家ここにあり!」と世に知らしめるため、これまでにない色絵磁器制作のために力を注いだのです。前田家の権力と財力があったからこそ有田から先進的な技術を導入することができ、また一流の絵師や技術者を集め、さらには前田家の培われた審美眼によって古九谷という圧倒的なオリジナリティを誇るアート作品を生み出すことに成功したのです。
Q.
今もなお高く評価される古九谷ですが、
50年ほどで生産を止められたんですよね。なぜなのですか?
その原因や理由は諸説あるのですが、定説はないのです。謎多き焼き物であることも古九谷の魅力ですね。
九谷焼制作を牽引してきた大聖寺藩初代藩主・前田利治や2代藩主・利明の死、飢饉による財政的問題、藩内政治権力争い、徳川家の干渉などなどあります。
諸説の択一論で答えを導くのは難しく、複合的な理由で古九谷の窯は閉じられたと私は考えています。
Q.
その後、九谷焼はどうなるのですか?
九谷村の窯が閉じられてから100年ほどがたった江戸後期になり、再び加賀藩や大聖寺藩内で、色絵磁器を焼く窯が林立します。
これを「再興九谷」と呼びます。
再興九谷の流れを順にたどっていきましょう。加賀藩の領地内「春日山窯」で、色絵磁器の生産が再び始まりました。金沢の春日山に京都の名工・青木木米を招聘し、呉須赤絵写しなど京焼風の磁器が作られました。
春日山窯 赤絵花鳥文大皿
能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵
この青木木米。彼は、すでに有名な京焼の陶工だったにも関わらず、「かつて九谷焼が作られていた土地。同じ原料があるのならば」と京から、わざわざ加賀にまで訪れてくれたというのです。古九谷が作られなくなった100年後の江戸後期でも古九谷は忘れ去られることはなく、むしろ文化の中心・京で活躍する名工をも惹きつける魅力があったということです。
その後、木米は京に戻りますが、加賀藩に残った木米の門下・本多貞吉が小松市郊外に花坂陶石を発見し、「若杉窯」を開きます。
Q.
若杉窯を開いた、本多貞吉とはどういった人物ですか?
本多貞吉がいなければ、もしかしたら今の九谷焼もなかったかもしれませんね。彼は2つの偉業を成した人物です。1つは花坂陶石の発見。もう1つは人材の育成です。
もともと古九谷は九谷村の陶石を使っていましたが、九谷村は山深く利便性が悪かった。そこで本多貞吉は、金沢で陶石を探しますが見つからず、さらに小松へと捜索の範囲をしらみつぶしに広げてようやく花坂で見つけたのです。今と違って科学的なアプローチはできないわけですから花坂陶石の発見は、本多貞吉の執念。
現在も、九谷焼の原料である花坂陶石は採掘されています。つまり本多貞吉のおかげで、今も九谷焼を作ることができるのです。
また、本多貞吉が開いた若杉窯では数多くの名工が育ち、その後の九谷焼に大きく貢献しています。再興九谷の代表格・吉田屋窯で活躍した粟生屋源右衛門、ジャパンクタニを牽引した斎田道開や九谷庄三も若杉窯で技術を磨いていました。
若杉窯 染付霊獣文平鉢
能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵
若杉窯 青手牡丹図台鉢
能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵
若杉窯では色絵磁器も作られてはいましたが窯入れの回数が少なくてすむ染付(藍色のみの表現)の器が多かったです。染付が中心になっていく過程で、色絵の名工・粟生屋源右衛門は古九谷の再興を目指す吉田屋窯に参画したのだと思います。
ちなみに、若杉窯で焼かれた色絵磁器は九谷焼とは呼ばれませんでした。若杉焼と呼んでいました。当時の概念でいうと、九谷村で作られていないのだから、九谷焼とは呼べなかったのです。
Q.
それでは、九谷焼は誰がどう復活させたのですか?
そのキーマンは、吉田屋伝右衛門です。大聖寺藩の豪商であり、大変な文化人。九谷焼を愛し、その再興を強く望んでいた人物です。吉田屋伝右衛門は私財を投げ打ち借金までして、わざわざ利便性の悪い、しかし九谷焼の聖地である九谷村で窯を開きます。
それが「吉田屋窯」です。九谷村で色絵磁器を焼く…吉田屋窯が真の意味で九谷焼を復活させたのです。
吉田屋窯 紫陽花瓜文大額鉢
能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵
吉田屋窯が手がけた器は、古九谷の青手を彷彿とさせる逸品が多く吉田屋窯の九谷焼は、古九谷の様式を受け継いでいると京都で評判を呼んでいたと解される当時の書簡が残っています。
透明感のある絵具の奥深さや絵の上手さ、そして洗練されたデザイン性も吉田屋窯の九谷焼の秀逸なところです。しかも、吉田屋窯の器は、古九谷の様式は受け継いでいるものの、そのデザインは全くのオリジナルである点も素晴らしいのです。九谷焼復活を強く望み、文化人でもあった吉田屋伝右衛門も、若杉窯から引き入れた粟生屋源右衛門といった色絵の若き天才たちも、古九谷が中国の模倣をしなかったように、吉田屋窯も古九谷の模倣は良しとしなかったのでしょう。様式だけでなく、九谷焼のものづくりの信念を吉田屋窯は受け継いでいたのだと思います。
ところが九谷村の窯は2年ほどしか稼働せず、吉田屋窯は山代に移ります。利便性を考えると九谷村では厳しかったのでしょう。
しかし九谷焼再興への情熱は周知の事実であり、また作品の評価の高さもあり、その後も吉田屋窯の作品は九谷焼と呼ばれました。実際に人気を集めた吉田屋窯でしたが、7年で焼き止めとなります。伝右衛門やその息子の死、借金荷重が原因でした。
その後、吉田屋窯は番頭であった人物に譲られ、「宮本屋窯」として稼働します。
Q.
宮本屋窯ではどんな九谷焼が作られたのですか?
今でも人気の技法・赤絵細描は、この宮本屋窯が大成させました。その主工が飯田屋八郎右衛門でした。吉田屋窯では古九谷の青手様式でしたが、宮本屋窯は赤絵一辺倒に。
他の地域でも赤絵を描いていましたが、宮本屋窯の赤絵はとてつもなく細密に描くことで、他の追随を許さない独自性を表現していました。ここでもまた九谷焼の「模倣ではない、オリジナリティの追求」が、赤絵細描九谷という新たな技法・様式を生み出したのです。
宮本屋窯 赤絵福寿字入大深鉢
能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵
その後、宮本屋窯を受け継いだ九谷本窯では、京の永楽和全を技術指導者として招聘しました。金の扱いに慣れていた永楽和全は、赤で塗り埋めた器に金彩のみで描く金襴手を九谷焼に根づかせました。
永楽和全 金襴手鳳凰文鉢
能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵
この金襴手と、宮本屋窯から続く赤絵細描が融合した「赤絵金襴手」が生まれました。
そして幕末から明治初頭にかけて、九谷庄三が古九谷以来歴代の色絵加飾の画風様式と西洋絵具の中間色を合わせて使用した「彩色金襴手」を編み出しました。
九谷庄三 龍花卉文農耕図盤
能美市九谷焼美術館 「五彩館」 所蔵
こちらは、九谷庄三の最高峰とも言える、第1回内国勧業博覧会(明治10年)に九谷庄三が出品した作品です。あらゆる九谷で用いた加飾を取り入れ、かつてないほどのゴージャスな作品です。いつ見ても、何度見ても素晴らしいです。この彩色金襴手と赤絵金襴手は、明治の貿易九谷「ジャパンクタニ」として国内外で高く評価されたのです。
古九谷から再興九谷までの歴史や画風を振り返ってみました。1つの焼き物でありながら、歴代の窯の作風にはストーリーがあり、その時々で、時代背景、関わる人や陶工の思いが如実に顕われている焼き物なのです。そんな焼き物は九谷焼ぐらいです。だから九谷焼は興味深い。
また常に高い評価を得ている点も素晴らしい。九谷焼はその都度その都度中国や京の技法・画風を取り入れながらも独自性を貫き、発展させてきました。その精神は、今も受け継がれています。現代の九谷焼も、作家の数だけ作風があると称されるほどですからね。
能美市九谷焼美術館 「五彩館」 中矢進一館長
九谷陶磁器史研究家。
石川県加賀市教育委員会、加賀市美術館学芸員、石川県九谷焼美術館副館長を歴任。
2016年より能美市九谷焼美術館館長に就任し、今に至る。
2006年全国5会場巡回特別展「古九谷浪漫 華麗なる吉田屋展」、2015年特別展「大名細川家の茶席と加賀九谷焼展」(永青文庫)、2015年北陸新幹線金沢開業記念特別展「交流するやきもの九谷焼の系譜と展開展」(東京ステーションギャラリー)を監修。「交流するやきもの九谷焼の系譜と展開展」会期中では、上皇上皇后両陛下行幸啓に際し「ご説明役」を務めた。
『ふでばこ(九谷焼特集)』、『九谷モダン』などの共著がある。
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前々から九谷焼の特徴は一言では説明がつかないなと思っていました。色々な技法・作風があり、あれも九谷焼、これも九谷焼。九谷焼ってなんぞや?と思っていたのですが、そんな多様性、独創性が九谷焼なのだと、今回の中矢館長の話を聞いて理解しました。
古九谷から始まった九谷焼。「模倣はせず、オリジナリティを追求する」。そんなものづくりの信念が受け継がれているからこそ
さまざまな九谷焼が登場し、日常の暮らしを豊かにしてくれているんですよね。
今までにない色絵磁器(九谷焼)を作ろう!と音頭をとってくれた前田のお殿様に感謝しつつ日々出会う九谷焼を楽しみたいですね。
能美市九谷焼美術館 「五彩館」
中矢館長のお話と共にアップした九谷焼は、九谷焼美術館「五彩館」で、実際に見ることができます。
他にも、江戸後期の青手の作品や、近代の名工の作品など、貴重な九谷焼が多数展示されているのでぜひ足を運んで、九谷焼の魅力を満喫していってください。